シャルリー・エブドの事件と最新号の表紙を見て思ったこと
「シャルリー・エブド」編集部襲撃事件のニュースを受けて、まず感じたのは、一緒に働いているイスラム圏の仲間たちのことでした。
彼らはこの事件をどう受け止めているのだろう?
少し前の去年12月中旬には、子どもたちの多くが犠牲になる学校襲撃事件がパキスタンで起きたばかりです。
狂信的なイスラム教徒による悲劇が起こるたびに、イスラム教に対するイメージが悪くなるようでとても残念です。
イスラム文化の豊かさ
いわゆる開発途上国と呼ばれる国で、私が初めて訪れた国はパキスタンでした。もうずいぶん前のことです。
そこで会ったモスリムの人々はとても親切で、行く先々で温かくもてなしてくれました。貧しいけれど、なんて心の豊かな人たちだろうと何度も思いました。
訪問先では、こんな話も聞きました。
パキスタンではこれまで近親者で結婚することもよくあり、大家族には心身に障害のある者がいる場合も少なくないそうです。ですが、彼らの文化では弱者を大事にするのは当たり前のことで、例えば足が悪くて学校に通えない子どもがいたら、30分や1時間はゆうにかかる道のりを誰か背負って連れて行くことも厭わないということでした。
当時、日本では、車いすの子どもが学校に通う時、教室移動で階段の上り下りが必要な場合やトイレに行くために親が一緒に登校しなくてはならないといった話や、保護者がついてこないと修学旅行に行かせてもらえない、といった話を聞いていたので、あまりの違いに驚きました。
そして、イスラム教へのイメージが変わりました。
「シャルリー・エブド」最新号は歩み寄り?それとも挑発?
編集部襲撃後、多くの犠牲者を出した風刺週刊紙「シャルリー・エブド」は、1月14日に銃撃事件後初の発行となる最新号を発売しました。
この最新号を日本のメディアがどう伝えたか、シノドスで紹介されていたフランス語翻訳家、関口涼子さんの解説がとても興味深かったので引用します。
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
普段、必要にかられて下手な翻訳をすることもあるけれど、この記事を読んで、翻訳の恐ろしさを痛感しました。
「Tout est pardonné」の意味
この表表紙には、ふたつの文章が記されている。まず、ムハンマドと解釈されるような男が「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。そしてその上には「Tout est pardonné」と書かれている。
なにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。
読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、これはまったく逆の意味だ。
「すべてが許される」であれば、フランス語ではTout est permis になるだろう。(中略)「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。
それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。
自分ではこれが正しい訳だと思っていても、下手すると真逆な意味になってしまうこともある、、、それが翻訳の怖いところです。
イスラム教徒にとってのグリーン
ところで、この「シャルリー・エブド」最新号の表紙は鮮やかなグリーンが印象的です。
グリーンはモスリム(イスラム教徒)が大切にしているカラーで、パキスタンでは平和の象徴だと聞きました。国旗にもグリーンが使われています。
この表紙にグリーンが使われているのは、私が初めて訪問した時に心からもてなしてくれたパキスタンの人々の尊厳までもが踏みにじられているような、そんな気がしてなりません。
パリでは「シャルリー・エブド」最新号があっという間に完売し、増刷されたそうです。そういったニュースを聞くと、西洋的な考え方とは少し距離を置いた日本のNGOがイスラム圏で果たせる役割は大きいのだろうなとも思います。
国際協力の仕事と映画な日々
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